日本 美女 歴史

日本には美女がたくさん!歴史とともに時系列で、美人を並べてみました。

人は「如何に後世に名を残すか」で人生を計ります。

生まれ持った美貌のみで後世に名を残すなんて…どんだけ美人やねんwと、その強運や薄幸を想いながら、ご覧ください。

蓮

画像はドラマで演じた役者さんや、イメージのものも含まれております。

日本の美女・歴史順にチェック!

弥生時代の日本の美女【卑弥呼】


今から1800年ほど前の弥生時代に、邪馬台国を治めていた卑弥呼という女王がいました。

卑弥呼は美貌を持つ占い師であると言われており、内政の多くは弟がしていました。

しかし日本に、卑弥呼に関する記述がある文書はなく、お隣の中国の有名な「三国志」時代の「魏志倭人伝」という書物に、卑弥呼のことがかかれています。

平安時代の日本の美女【大弐三位】

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大弐三位って誰やねん?と思うかもしれませんね。私も調べるまで知りませんでした(笑)。

大弐三位はあの有名な紫式部の娘です。本名は藤原賢子(ふじわらのかたいこ)。賢そうな名前ですが、明るく活発で恋多き美女として知られています。

百人一首では「有馬山 いなの笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやわする」という歌を詠んでいますね。

紫式部と3年だけ夫婦だった父親の藤原宣孝よりも、ずっと有名な母子です。

平安時代に活躍していた女性といえば

平安時代と言えば、遣唐使により中国から漢字が伝わってきて、それを宮廷女性が柔らかいひらがな文字にし、手紙のやり取りや日記を書き記す文化が華やいだ時代です。残されている文書から、宮廷内の人々の生活がよく伝わってきます。表の世界では藤原道長が左大臣や摂政を務めて権力をにぎっていましたが、遺されている記述からは女性の活躍も目覚ましい時代でした。

有名なのは紫式部の「源氏物語」。そして清少納言の「枕草子」。もっと時代をさかのぼると、聖徳太子の時代には推古天皇や持統天皇という女性の皇族の名も残されています。

平安時代の日本の美女【藤原定子】


藤原定子(ふじわらのていし)は、あの有名な清少納言の「枕草子」に登場する史実の人物です。一条天皇の中宮であり、清少納言が仕えていた女性として知られています。

清少納言は「枕草子」に彼女のことをしばしば書いており、その人物描写が美しいことから、美しい女性だったことがうかがえます。

平安時代の日本の美女【和泉式部】


和泉式部は百人一首にも歌を残した、平安時代の歌人です。

紫式部と同世代を生きた女性で、紫式部から「色恋の多きみだらな女性」的に、若干ディスられています。恋多きことからかなりの美女と予想できます。

百人一首でも「あらざらむ この世の他の思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな」と詠んでおり、古語が苦手でも恋の歌とバッチリわかる色気を出していますね(笑)。

平安時代の日本の美女【小野小町】


世界三大美女の一人と言われる小野小町も、平安時代の女性です。「小町」とは「評判の美女」という意味で、今も秋田美人の代表のように言われています。

ただ、伝書に「小野」姓が残っているものは少なく、実在の人物かどうかは不明。

そして「世界三大美女」というくくりも日本だけのもので、世界中の人が本気で歴史上の美女をランキングにしたら、ランクインするかどうかも怪しいです。

ただ、「その時代にとてつもない美女がいた」という漠然とした言い伝えは残っており、百人一首でも「花の色は 移りにけりな いたづらに わがみよに振る ながめせしまに」と、美貌がなくなっていくことを嘆く歌を残していることからも、かなりの美女であったと想像できます。

「世界三大美人」について

「世界三大美人」とは、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町の3人の歴史上の人物を指しますが、それを言われているのはほぼ日本だけ。世界的にはクレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ―(ギリシャ神話)こそが世界三大美女だと言われていますが、実はそれを言うのもほぼ日本人だけ。

日本人は「トップ3にこだわる文化」的なところがあるため、「世界三大」と銘打つ時点で日本的な考え方なんです。世界中の歴史上の美女など山ほどいるため、3人に絞り切れないのが本当のところでしょう。

平安時代の美女【桔梗御前】


940年に関東一帯を巻き込んだ「平将門の乱」で有名な平将門の愛妾として知られている桔梗御前は絶世の美女だったと言われています。

白拍子だった桔梗御前はその美しさから平将門に気に入られて寵愛を受けるが、将門を裏切って敵と内通した故に、呪われて非業の死を遂げた…という伝説は関東のいたるところに残っています。将門の呪いによって桔梗の花が咲かない地域もあると言われるほどに、伝説は寒々しく残っているんです。

「平安時代の美女は?」と聞かれると、多くの人が「小野小町」と答えますが、宮廷と言う限られた空間の中での一軍人物たちの「褒め合い」よりも、猛々しい武将に見初められた庶民の美貌の方がより、印象深いですよね。

ちなみに平将門は、乱を起こして関東を制圧し、「東の朝廷」として京と対立しますが、2か月ほどで打ち破られます。

平安時代【常盤御前】


平安時代も末期になると、宮廷文化よりも軍記的な伝記が増えていきます。平家滅亡を綿密に描いた「平家物語」が有名ですね。

その平家物語に描かれている絶世の美女は常盤御前。あの有名な源義経のお母さんです。

平家物語では「雑仕女を探すために都の美女1000人を集め、その中で最も美しく聡明であった」と書かれています。美女に関する伝記の多くは脚色されているので、話半分に聞いたとしても、相当の美人だったと想像できますね。

その後九条院の雑仕女から源義朝に召し上げられ、3人の子どもを産みます。平治の乱で義朝が殺害されたときに、常盤御前は3人の子どもとともに平清盛にとらえられますが…そのあまりの美しさに、「清盛の娼婦となって1児をもうけた」とまで言われています。

義経も「母親似の美形」と言い伝えられているため、常盤御前の美貌はホンモノだったのでしょう。

平安・鎌倉時代【巴御前】


源頼朝や義経のいとこにあたる木曽義仲の愛妾の巴御前は、美貌ではもちろん、戦闘力でも知られています。平家物語でも「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と書かれており、かなりの美人だったことがわかります。

『延慶本』では、宇治川の戦いで木曾義仲は劣勢になりますが、「最後の7騎」まで巴御前は残っていたと書かれています。

木曽義仲の死後の巴の行方は知られていませんが、鎧を脱ぎ捨てて尼となり、義仲の冥福を祈り続けた説が有力です。

2022年の大河ドラマでは秋元才加さんが演じる予定で、勇ましい姿も想像できて楽しみですね♪

鎌倉時代【静御前】

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巴御前と聞くと、同時に思い出すのが静御前です。

「弁慶と牛若丸」でも知られている、牛若丸こと源義経の愛妾として有名な静御前は、まごうことなき美女として知られています。

「義経記」には後白河天皇が雨乞いのために白拍子の美女100人を舞わせたが、99人が舞っても何も起きず、静御前が舞い始めると雨が降り始めた。と書かれています。

「白拍子」は今でいう芸能人のようなものなので、顔の美貌はかなりのもの。芸能人100人中、1番だったということですね。

静御前は「吾妻鑑」によると、義経の愛妾であり、頼朝に追われる途中捉えられ、義経の子どもを産むが、由比ヶ浜に沈められてしまったと書かれています。

義経には他にも妻や妾、女児がいると書き残されていますが、悲恋が美化され、現代では静御前がベストカップルとして知られています。

平安から鎌倉時代にかけての有名な女性

平安末期から武士の活躍が目覚ましくなり、いくつもの乱がおきるようになります。源平合戦を経て鎌倉幕府を作ったのは源頼朝。その妻として有名なのが北条政子です。北条政子は頼朝亡き後、2人の子供たちにも先立たれて、自ら実権を握り「尼将軍」と呼ばれるようになります。

戦国時代の美女【お市】


1180年、武家が実権を握る鎌倉幕府が発足。その後足利尊氏が1336年に室町幕府をひらいてから、織田信長が1573年に滅ぼすまでの間…めぼしい美女がいませんでした。見逃していたらすみません…。

そして戦国時代に、再び美女がたくさん到来!NHKのドラマやゲームやマンガでも取り上げられているため、戦国時代の美女伝は多くの人に知られています。

「織田信長」と言えば妹の「お市の方」が絶世の美女だったとして有名です!

信長とは13歳離れた兄妹で、浅井長政との間に「茶々」「初」「江」の3人の娘をもうけ、長政の死後は柴田勝家の元へ嫁ぎました。柴田勝家が秀吉に滅ぼされたときに、夫とともに自害して、37歳の若さでこの世を去りました。

戦国時代の美女【茶々】


お市の方の長女の茶々は、後に秀吉の側室となる美女でした。母の面影を強く受け継いだ茶々は、秀吉お気に入りの側室。しかも子どものいない秀吉に、晩年に2人も子どもを産んであげるという快挙っぷり。

息子の秀頼とともに関ヶ原の戦いで負けた後に自害をしました。

戦国時代の美女【お江】


茶々の妹、お市の方の娘のお江も、美人として知られています。というか、織田家の顔面偏差値高い説。みーんな美形や。

お江は3回目の結婚で徳川秀忠に嫁ぎ、春日の局とぎすぎすの女の争いを繰り広げたことでも有名です。お江の長男の家光の鎖国政策により、江戸幕府は世界の歴史でも類を見ない「260年も続いた政権」となりました。

徳川家の血も、織田家の血も、お江によって現代までつながれていたんですね。

戦国時代の美女【冬姫】

織田信長の次女の冬姫も、美女と言われていました。わずか9歳で蒲生氏郷(当時12歳)の正室になり、仲むづまじく暮らし、81歳の長寿を全うした女性です。

戦国時代の美女【吉乃】


織田信長の正室である美濃の「濃姫」の名は有名ですが、吉乃の名はご存じでしょうか。生駒吉乃は信長の愛妾で、信忠の母と言われている人物です。信忠の年齢は、異母兄弟の信孝よりも若かったらしいですが、信長の寵愛を受けている女性の子供として、信忠が「長男」とされていることからも愛情の深さがうかがえます。

遠藤周作の「男の一生」という小説に、吉乃の美女ぶりが綿密に書かれています。線が細く病弱だった吉乃が死んだときは、あの信長でさえ涙を流したと語り継がれています。

戦国時代の美女【諏訪御料人】


戦国時代の最たる猛者と言われている武田信玄。その側室として寵愛を一身に受けていた諏訪御料人も、絶世の美女と言い伝えられています。

諏訪御料人は武田勝頼の母で、心身ともに弱く早世したと言われています。

現代の武士道の元となった「甲陽軍鑑」でも、諏訪御寮人のことを「かくれなきびじん」と書かれており、その美貌がうかがえますね。

戦国時代の美女【駒姫】


秀吉の甥の豊臣秀次が、ぜひにと請うた絶世の美女の駒姫。現在の秋田県ふきんを治めていた最上義光の次女で、美人と名高かい女性でした。秀次に請われて、京まで輿入れに来たところ、タイミング悪く秀次が秀吉の命令で切腹…。

まだ正式に側室になっていないのに、駒姫も他の側室や子どもたちとともに打ち首にされた悲運の美女でした。享年なんと15歳…。15歳で美女とあがめられるなんて、よほどの美貌の持ち主だったとうかがえますね。

母親はショックで2週間後に死亡。父親の最上義光はこの時の恨みを関ヶ原の戦いで晴らしたと言われています。

戦国時代の美女【細川ガラシャ】


戦国時代の最たる美人と言えば、多くの人が「お市の方」を思い浮かべます。織田家の顔面偏差値は高いうえに、時の権力者であったがゆえに名は残りやすいでしょう。

けど、当時の美形一家であった織田信長自身がその美貌をたたえたのは、細川ガラシャです。

細川ガラシャの父は明智光秀。後に本能寺の変で信長を討つ男の娘です。明智光秀も教養と知性のある美形だったと言われているため、娘のガラシャも美貌を受け継いだのでしょう。

ちなみにガラシャはキリスト教になって改名したもので、本名は玉子です。たまこちゃんです。

夫の細川忠興は妻の美貌にハラハラして、朝鮮出兵中も「秀吉の誘惑に気を付けろ」などと、玉子に何度も何度も何度も手紙を書き送っています。本能寺の変の後も、玉子に害が及ばないよう幽閉して守り抜きました。美貌の妻にメロメロです。

ガラシャは関ヶ原の戦いのときに石田三成に屋敷を包囲され、夫の命令に従って自害したと言われています。彼女はキリスト教だったため、自殺を禁じられて、側近に自分を殺させたと伝わっています。

蓮

それって自殺と同じような気がするけど…

江戸時代の美女【お万の方】

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江戸時代に入ると、美女と言えば徳川幕府の大奥の中に注目が集まります。大奥の奥さんとか挙げていたらきりがないので、大奥の中では2人だけピックアップしました。

まずは有名な徳川家光の側室のお万の方。母親のお江と春日の局の壮絶な女の争いで、めっきり「女嫌い」になってしまった将軍家光公ですが、お万の美貌で大奥嫌いを克服したと言われています。

江戸時代の美女【右衛門佐局】


右衛門佐局の読み方は「えもんのすけ」です。生類憐みの令を発令した綱吉公の時代に、京から来て大奥勤めし、お万の方以来の大奥総取締の座についた美女です。

才色兼備と名高く、映画の逆転大奥では堺雅人さんが熱演していましたね。

江戸時代の美女【明和三美人】

9代将軍の徳川家重公の時代、江戸の街では評判の美人を浮世絵などで描いてグッズも作って販売することが流行っていました。浮世絵師として有名な鈴木春信氏により、江戸中で大人気だったのが明和三美人です。

  • 浅草寺の「柳屋」の看板娘・お藤
  • 二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘・およし
  • 笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘・お仙

手拭などのグッズも大人気だったというから、今でいう「地下アイドル」みたいな感じでしょうか?

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浮世絵に描かれる「美人」はどこが美人なの?という女性が多いのですが、鈴木春信さんの描く美女は、現代でも美女と言えるものが多いです。

「色白」「きゃしゃ」「ポーズが可愛い」「15歳くらいの子ども」が明和の時代に人気だったのだとわかりますね。

江戸時代の美女【寛政の三美人】

徳川幕府10代将軍、家治の時代…つまり、老中の田沼意次の時代に、江戸市民の間では歌麿の浮世絵が大人気でした。

喜多川歌麿によって描かれた寛政の三美人の浮世絵は、現代ボストン美術館所蔵品として、世界中の観光客を魅了しています。富本豊雛難波屋おきた高島屋おひさの3人で、江戸の街でも評判の美女たちでした。

…そして世界中に「日本の美的センスは…」とか思われているかもしれません…。江戸時代の浮世絵の「美人」は、現代の「美人」とは違う美的センスですよね(笑)

歌麿の絵はこんな感じで現代では「どこが美女?」と首をひねりたくなるものが多いです。安藤広重さんとかももっとそんな感じ。浮世絵師で現代美女にも通じる書き方をしているのは、鈴木春信さんがぎりぎりかな?と思います。

このころ日本は鎖国をしていたため、いわゆる海外の血がほぼ入っていない状態だったんですよね。浮世絵によく描かれるとがった鼻は、この時代の日本では珍しい風貌だったのかもしれません。

日本の歴代美女、まとめ

  • 弥生時代…卑弥呼
  • 平安時代…大弐三位、藤原定子、和泉式部、小野小町、桔梗御前
  • 平安末期~鎌倉時代…常盤御前、巴御前、静御前、
  • 戦国時代…お市、茶々、お江、冬姫、生駒吉乃、諏訪御寮人、駒姫、細川ガラシャ
  • 江戸時代…お万の方、右衛門佐局、明和三美人、寛政の三美人

1847年頃に、日本にカメラと写真の「撮影技術」が輸入されて以降は、画像ありきの美女もたくさん残されています。けど、昭和31年に売春禁止法が発令されるまで、女性は国から「商売道具」「性の玩具」と位置付けられており、残されている写真の多くは身を売る芸者などのものが多いです。

当然美人は増えますが、存在理由を鑑みて「歴史上の美女!」と色眼鏡で見るのは失礼な気がして、明治時代以降の美人は控えさせていただきます。

明和三美人、寛政の三美人はいずれも「看板娘」であり、幸せな結婚を果たしている地下アイドル的存在なのでいいかなと笑。

私は歴史が好きでよく歴史書を読みますが、語り継がれる多くの名は99%が男性のもの。

女性で名が残っているのは「権力者の身内」をのぞけば「美女」のみです。いつの時代も確かに男性の人生を支え続けてきたはずなのに、美貌でしか名を残せない悲しい存在である女性たちに、スポットを当ててみました。

最後まで読んでくれてありがとうございました。