川端康成の「伊豆の踊子」は、有名な日本文学です。
内容は驚くほど短く、数分で読めてしまいます。
そして数分後に「…?!!なんじゃこら?!!」となる迷作です…。
も―…日本の昔の有名文学ってこんなんばっかかよ…w
川端康成さんの作品は古い時代背景が前提となっているので、令和の若者が読んでも意味が分からなくて当然です。
今回は伊豆の踊子のあらすじと感想を紹介していきますね。
「伊豆の踊子を読んで論文を書きましょう。」などと言われてしまった方は参考にしてください。
論文書くなら伊豆の踊子に散りばめられている「差別」意識だけはしっかりと把握しておいた方がいいですよ。
ネタバレしたくない方はこの先は読まないでくださいね。
- 面白さ:
- 読みやすさ:
- 導入の引きこみ:
- 読んだ後の満足感:
- 読むのにかかった時間:10分
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伊豆の踊子のあらすじと感想
伊豆の踊子はすごく短い短編集なのに、登場人物はワラワラとたくさん出てきます。
が、覚えておくべきは2人だけ。
主人公の20歳の学生の青年と、旅先で出会った踊り子の娘(14歳)だけ覚えておけばOKです。
ほかに爺さんやら婆さんやら40女やら男やらが出てきますが…「背景」的な感じなので、主な登場人物は2人と考えていいでしょう。
大まかなあらすじは…
20歳の学生の青年が、伊豆に1人旅をしていると、旅芸人の一行に出会い、その中の14歳の若い娘に心を奪われ、数日一緒に旅をするが、旅芸人一向に別れを告げて東京に帰る。
というストーリーです。
それだけかいw
と思うのですが、本当にそれだけです。
川端康成さんの作品の中でも有名なタイトルで、名前だけなら知らぬものはいないと言ってもいいくらいの「伊豆の踊子」ですが、たったこれだけの内容なんです。
アクションは少ないけど、主に主人公の青年の心情を追った短編小説なので、胸の内の抑揚は繊細に描かれています。
ザっと読んだ感想では…
20歳の青年が、14歳の娘に欲情している…という、女性視点ではちょっと引く内容です。
大学生が女子中学生を…なんて現代で考えちゃダメですね。
しょうがないです。書かれた時代は大正時代ですから。
この時代は男女混浴が普通だったようで、20歳の主人公青年は、女性に風呂に一緒に入りませんか?などと、誘われるシーンもあります。
令和とはそもそも常識が違う…
伊豆の踊子「孤児根性」とは?
主人公は両親のいない孤独を抱える悩める青年で、自分のことを「孤児根性で歪んでいる」と表現しています。
この小説は作者の川端康成さんの体験談をもとにしていて、川端康成さん自身も両親と兄弟に祖父母を早くに失くしています。
「孤児根性」とは、川端さん自身の悩みだったということも有名です。
私は幼くから孤児であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。川端康成:文学的自叙伝より引用
主人公の青年も「孤児根性」を治したくて旅に出て、ラストで踊り子と別れて船に乗って泣いたときに、孤児根性を克服できたのです。
その自分の性質を持ったまま生きていこうと思えたのです。
伊豆の踊子の中の「差別」とは
伊豆の踊子は女性が読むと胸糞悪くなるくらいの「男女差別」「階級差別」が散りばめられています。
登場する14歳の少女はモロに「性的対象」として描かれているし、その処女性を強調する描写もあります。
同じ宿に泊まって夜通し宴会の音を聞いている青年は…
踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。
と悶々とした夜を過ごした後、朝ぶろに入っている少女が風呂場から真っ裸で手を振ってくれたことに喜びます。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣所の突鼻に川岸へ飛び下りそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びで、真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。
…女性の皆様…いかがでしょうか?
14歳のとき、恥ずかしげもなく真っ裸で男性に手を振るほど「子供」でしたか?8~9歳くらいの少女ならばわかりますが…。
思春期真っただ中で一番「そういうこと」に抵抗がある時期だと思うのですが。
私は「ん?これってただの男の願望じゃないの?」と思ってしまいました。
そもそも大正時代の「旅芸人」は、集落から集落を放浪して宴会をひらいて芸を披露し、そこに属する女性は性のはけ口として見られていました。
「伊豆の踊子」の中でも、下田付近の村には「物乞い旅芸人村に入るべからず」と立札があり、踊子たちがこの社会の中で軽蔑される存在だったのだとわかります。
旅芸人の一行の女性はこの作品の中で「売春婦」のように書かれているのです。
作中でも立ち寄った宿の婆さんが…
「あんな者、どこで泊るやら分るものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊るんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」
と踊子たちを見下しているセリフがあります。
これを聞いた主人公は、
それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ、と思ったほど私を煽り立てた。
と慌てて踊子を追いかけます…踊子を買う気満々です。その後、踊子が子供であるとわかり、こうした気持ちは引っ込めますが。
主人公の青年は、「孤児」とはいっても高等学校の学生であり、社会的地位は高いと思われます。
「伊豆の踊子」には、この「性差」と「階級差」が登場人物たちの間の暗黙の了解として存在するんです。
要するに…
旅芸人の踊子は、当然「そのうち客に犯される存在」なわけで、彼女の処女は風前の灯なんです。
それが奇跡的に守られていたことに、主人公青年は大きな喜びを感じます。
汚くて当然と思っていた汚物の中に、一粒のダイヤモンドを見つけた奇跡に感動するんです。
そして処女だけが持つ少女の無垢さを、旅の間に存分に堪能しました。
青年の悩みは、踊子の無垢な心に触れることで、なくなっていきます。
最後になぜ泣いた?
主人公青年は、踊子と別れて帰路に向かいます。
白い布をふる踊子の姿をみて、船の上で恥ずかしげもなく大泣きします。
主人公青年はおそらく、「社会の底辺に生きる踊子が、己の人生に全くいじけておらず、無垢なままである様子を見て、自分の【孤児根性】という悩みがちっぽけで贅沢であること」に泣けたんだと思います。
私は幼くから孤児であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。川端康成:文学的自叙伝より引用
孤児根性で人からの親切を「当然」と受け入れる自分の性質は、社会の底辺に生きる踊子からさえも「親切を巻き上げた」ような気持になり、自分に情けなくなり涙が出たのかと思いました。
そして帰りの船で…
「人からもらった握り飯を当然のように貪り食う」
「通りすがりのお婆さんを親類縁者の元へ送る」
という行為を「これでいいのだ」と行います。
孤児根性で、人からの親切を当然のように受け入れる代わりに、人への親切も当然のように行えばいいんだ。今のままの自分でいいのだ。と、踊子のおかげで考えることができたんです。
踊子はどう思っていた?
「伊豆の踊子」は主人公の一人称の物語なので、踊子の心情は全く描かれません。
けど私は女性なので、踊子目線で物語を見てしまいました。
伊豆の踊子は、14歳という多感な時期に、東京から来た一校の学生と出会ったわけです。
親切で優しい男性に、当然恋をしました。
踊子が下から茶を運んで来た。私の前に坐ると、真紅になりながら手をぶるぶるふるわせるので茶碗が茶托から落ちかかり、落とすまいと畳に置く拍子に茶をこぼしてしまった。あまりにひどいはにかみようなので、私はあっけにとられた。「まあ!厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ…。」と四十女が呆れ果てたという風に眉をひそめて手拭を投げた。
その後は風呂から真っ裸で手を振ったり、本を読んでほしいとせがんだりして、青年にストレートな思いをぶつけます。
踊子の方としては、「この人が私の白馬の王子様かもしれない!」と盛り上がっているんです。
14歳の少女らしく、かわいらしいですよね。
旅芸人の一行の年配女性たちを見ていると、当然踊子は自分の将来を予想するわけです。
この先どこかの宿で客に手籠めにされ、望まぬ妊娠や結婚をするのだろうと。
そしておそらく「そうはなりたくない」と願います。
最後の最後までいじらしく青年の見送りについてきて、何も言葉をはっせずにうつむいているところなんかもどかしいですね。
「私もつれてって!」
「私をお嫁さんにして!」
そう叫びたいのかもしれません。青年からのプロポーズを期待しているのかもしれません。
けど、現実はそうはいきません。
栄えある東京の大学生は、自分など見向きもしないのだという現実が突きつけられます。
さっさと船に乗っていってしまったし…。
そうだよな…。
私なんてしょせん、世間から蔑視される旅芸人の娘…。
お嫁さんになんてしてくれるわけがない…。
男が一人旅にロマンと感動を見出し、人生のステップアップにしている裏側で、その踏み台となった踊子は失恋と失望に落ち込みます。
そして相変わらず娘の人生は変わりません。
粛々と、己の運命を生きるしかないんです。
20歳の若い青年には、この少女の切なさは、わからないんだろうな…なんて想像しながら読んじゃいました。
同じ天城峠を舞台とした石川さゆりさんの「天城越え」は「伊豆の踊子」とは別の作品ですが、この曲くらいの女の「ガー!」とした想いが、14歳の踊子の中にも、少し見え隠れします。
14歳じゃここまでガーっといけないか…笑
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伊豆の踊子にでてくる天城峠とは?どこ?
伊豆の踊子に出てくる「天城峠」は物語の重要な場面です。
「伊豆の踊子」の冒頭は…
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
と始まります。天城峠の手前の休憩所で踊子たちと再会します。
主人公が踊子を「今夜は私の部屋に泊らせるのだ」と後を追いかけて通るトンネルです。
「トンネルの向こうは不思議の国でした」ってやつですね。トンネルの向こうで別世界に行くストーリーは日本の文豪は大好きです。
山と滝と海と温泉…という日本人が大好きなシチュエーションが勢ぞろいしたロケーションで、伊豆の踊子以外にも多くの作品に使われている名所です。
現代はこんな感じ。出口が見えています。この先には伊豆の踊子をモチーフにしたブロンズ像があります。
実際に川端康成さんが「伊豆の踊子」を執筆した温泉宿もあり、「踊子が裸で手を振った温泉」のモチーフもあるため、観光スポットとして人気です。
伊豆の踊子は鬼滅の刃と同じ時代?
2020年に日本を大いに盛り上げてくれた鬼滅の刃は、大正時代を舞台としたマンガです。
炭治郎が鬼狩りの選抜試験を受けたのは1912年です(ここに詳しく考察が載っていました)。
そして「伊豆の踊子」の物語の最後に「大正11年~15年」と書かれています。
西暦に直すと1923年~1928年ということ。
「伊豆の踊子」は炭治郎たちが鬼退治をしてから10年くらい後の話ってことですね。…どちらもフィクション作品ですが、なんとなく比較してみました笑。